答えをくれなかった人(私の2社目の物語)
社会人になって4年が過ぎた頃、
私は「このままでいいのだろうか」という、はっきりとした形を持たない不安を抱えていた。
仕事に大きな不満があったわけではない。会社が嫌いだったわけでもない。
ただ、この場所で年を重ねていく自分の姿が、うまく思い描けなかった。
大阪から埼玉へ戻った私は、未経験だった「人事・総務」という仕事に応募した。
なかなかの倍率だったと聞いている。
正直、期待はしていなかった。それでも私は、奇跡のように採用された。
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入社してからの半年間、私は毎朝、30分早く出社していた。
上司と2人きりで行う、労働関連法の勉強会。
労基法、就業規則、判例・・・
難しい内容ばかりで、何度も頭が追いつかなくなった。
「勉強しろ」
上司の言葉は、いつもそれだけだった。
褒められた記憶は、ほとんどない。
けれど今になって思う。
あの30分は、私にとって仕事の土台をつくる時間だった。

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入社して半年後、親会社のグループ会社として、
一般労働者派遣事業を立ち上げるプロジェクトが始まった。
私はそのメンバーに加わった。
社会人としても、人事としても、まだ未熟な状態だった。
関係各所に助けられながら、なんとか会社は無事に設立された。
私は、その新会社に転籍できるものだと思っていた。
だが、実際に転籍したのは、一緒にプロジェクトを担当していた先輩だけだった。
悔しかった。
正直に言えば、かなり。
けれど、その出来事は、
私に思いがけない成長の機会を与えてくれた。
先輩がいなくなり、彼が担当していた業務のすべてが、私のもとへ回ってきた。
労務管理。
給与計算。
就業規則の改定。
社内行事の運営。
社外との折衝。
庶務。
忙しかった。けれど、不思議と苦ではなかった。
新しいことに挑戦できる喜びのほうが、ずっと大きかった。
私は、上司のもとで、仕事のやり方だけでなく、
仕事への向き合い方を少しずつ学んでいった。

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特に強く心に残っている経験が、2つある。
ひとつは、人事制度の見直し。
年功序列型から、成果主義型への移行だった。
コンサルタントの指示のもと、賃金カーブの設計、退職金制度、評価基準の見直し。
正解のない問いに、何度も向き合った。
制度移行が無事に終わった夜、上司は初めて、私を酒に誘ってくれた。
そして、短くこう言った。
「よくやったな」
その一言は、どんな評価よりも、私の胸に深く残った。

もうひとつは、リストラだった。
在職中、二度経験した。
誰かの人生に、直接向き合う仕事。
顔が引きつるのを必死に抑えながら、誠実であろうと、懸命に取り組んだ。
できれば、誰も経験したくない仕事だ。
それでも私は、この経験が自分を一段、成長させてくれたと、今は思っている。
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その後、私は同グループの派遣会社へ転籍した。
このとき、私は同じ上司の勧めで
「キャリアカウンセラー(JCDA)」の資格を取得した。
会社の外の人たちとの出会いが増え、私の世界は、少しずつ広がっていった。
今も続くご縁の多くは、この頃に生まれたものだ。
振り返れば、ここもまた、人生の大きな分岐点だった。
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次に私は、同グループ会社の特例子会社へ転籍する。
そこにいたのも、最初から私を導いてくれていた、あの上司だった。
上司は、多くを語らない人だった。
けれど、近隣企業の同じ職種の人たちからの信頼は厚く、
困ったときには、自然と相談が集まっていた。
「総務はサービス業だ」
それは、いつも変わらない口癖だった。
従業員が働きやすい環境を整えること。
あらゆる事態を想定し、準備を怠らないこと。
そして何より…
自分の背中を見せながら、私を信じて仕事を任せてくれた。
細かく指示することはなかった。
答えを先に教えることもなかった。
それでも、困ったときには、
少し離れた場所から、必ず見守ってくれていた。
私は、その背中に応えたかった。
認めてもらいたかった。
それが、
私が仕事に向き合い続ける、いちばんの原動力だった。

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やがて、その上司は定年を迎えた。
そのとき、私の中で何かが、静かに切れた気がした。
その数年後、私は会社を離れ、次のキャリアへ進んだ。
約16年間。
長いようで、驚くほどあっという間だった。
これは、私の2社目の物語。
そしてきっと、次の物語へと続く、大切な1章。
私のキャリア(人事・総務編)
国家資格キャリアコンサルタント
荒川 貴司





